岡山の常山城で行われる女軍供養祭。今年も8月11日に開催!

群雄割拠戦国時代。備中兵乱最後の舞台、備中国常山城(玉野市・岡山市)。
今も城址には女軍34名が眠る供養塔がある。
毎年お盆の時期、山の日にこの女軍の供養祭が行われておる。今年で49回目となり、2023年8月11日に行われる予定となっておる。
この慰霊祭と、女軍哀詩の舞台、常山城を岡山城総普請奉行・角南智行、のちの常山城城主・戸川秀安がご紹介いたしてまいろう。
掲載日:2023年08月02日
  • ライター:岡山戦国武将隊
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備中国常山城と備中兵乱

常山城(つねやまじょう)は玉野市宇藤木にある戦国時代に築かれた山城じゃ。
文明年間(1469~1486)に備中の戦国大名・三村氏の姻戚である上野氏によって築かれたが、詳細は不明である。以後はこの上野氏の居城になっておった。
備中兵乱とは、戦国時代岡山県西部で起こっていた大小領主入り乱れての戦なんじゃ。当時、備中を手中に収めていた三村家親は毛利と手を組んでいたが、宇喜多直家により殺された。これは日本初の鉄砲による暗殺であった。
その後、毛利と宇喜多が手を組んだため、後を継いだ子の三村元親は毛利を離反。そして毛利に攻められ三村氏は滅んだのじゃ。
三村氏最後の拠点、上野隆徳の守る常山城も追撃され城を囲こまれ上野氏も滅び、備中国を毛利のものとした。この一連の戦いが備中兵乱とよばれており、最後の舞台となったのが常山城なんじゃ。

岡山にもあった!女軍哀詩・鶴姫と侍女34名の奮戦

常山城城主・上野隆徳には、三村家親の娘、鶴姫が嫁いでおった。この鶴姫は実家三村家では武家の娘としてふさわしいよう、武芸なども幼き頃より修練されておった。
毛利氏は天正3年(1575)三村氏を大松山城(高梁市)に滅ぼしたあと、最後に上野隆徳の居城、常山城を取り囲み攻めた。
毛利軍はついに常山城本丸のすぐ下まで迫る。
鶴姫は武家に生まれた女としての信念を貫いたのじゃ。 親を殺された敵と手を結び、兄をも殺されたという思いもあったであろう。自ら甲冑に身を包み、武器を手に取り打って出た!その勇ましい姿を見た城の侍女たちも武器を手に取り次々と鶴姫に続いた。
しかし、所詮負け戦、女達は哀れ次々と討ち取られ、鶴姫は毛利軍の武将に一騎打ちを挑んだ。
しかし、この武将は女とは戦えぬとそれを拒否。鶴姫はここまでと、本丸に引き上げた。そして城主、上野隆徳とともに壮絶な自害をとげたのであったという。
これが今に伝わる常山城女軍哀詩である。城跡には、今も鶴姫と女軍34名が静かに眠っておる。

その後の常山城

その後常山城は豊臣秀吉により宇喜多直家に与えられ、有力家臣であった戸川秀安を城主に任命。
この、宇喜多時代のとき、石垣を築き、現在みられるような姿に改修された。
そして、関ヶ原の合戦後は小早川家の城として存続し、小早川家断絶後、慶長8年(1603)池田家により廃城となった。
現在城址には、曲輪・石垣・堀切・井戸などの遺構がよく残っておる。
山麓には、戸川秀安の墓と位牌の収められた廟所・友林堂が現存している。

常山城女軍供養祭

天正3年の常山城落城の時、鶴姫その他34人の女軍が願いかなわずに華々しくも最期をとげた。彼女たちを供養するために毎年行われているのが常山城女軍供養祭なんじゃ。
この供養祭は昭和12年に、この歴史を後世につないでいこうと有志により女軍塚を整備したことをきっかけに始まったという。宇藤木地区や荘内地区の地元住民の方々や玉野地踊保存会のメンバーが集まり、今年で49回目の供養祭となる。
昭和50年には、口説き「常山落城記」を完成させたの機に、地踊りかっからかを供養踊りとして踊り奉納されておるんじゃ。

見学自由。毎年8月の山の日に行われる供養祭

この供養祭は常山観光協会の主催で、どなたでも見学できるのじゃ。
出席者はそれぞれの思いを胸に女軍塚に線香を供える。そして、戦国時代、ここ常山城に散っていった鶴姫はじめ34名の侍女達に思いを馳せる。
今年(2023)も、我々岡山戦国武将隊も演舞にて供養祭に参加し、常山城女軍哀詩を演じて供養する予定となっておる。

【常山女軍供養祭】
日時:2023年08月11日 (金)10:00~11:30
場所:常山2合目(玉野市宇藤木)
注1)
お車でお越しの際は、できるだけ乗り合わせてお越しください。道路幅が大変狭いので、低速運転にて十分ご注意ください。
注2)供養祭以外は、山頂まで車で行くことは出来ません。
 

常山城近くのお勧めスポット 戸川秀安の廟所・友林堂

友林堂は、毛利との合戦で滅んだ上野隆徳から10年後の1585年に常山城主となった宇喜多家の家老戸川秀安(友林)を祀った霊廟なんじゃ。秀安を初代とする戸川家は、江戸時代、旗本として火付け盗賊改めや長崎奉行など幕閣の要職を務めた人を多く輩出し、友林堂は彼らにより1805年に建立された。秀安は、熱心な仏教徒で温厚な人柄であったといわれ、家督を譲ったあとも友林と号し、お気に入りのこの地に住み続け、お寺を建立し、庶民と親しく 交わり、1597年、宇藤木の地で没した。59歳じゃった。

内部公開される友林堂

8月11日の供養祭のときには一般開放され、どなたでも内部の様子を見学できるということじゃ。旗本大名家の先祖を祀った廟所だけに内部も豪華じゃ。色彩豊かな折り上げ天井の天井画は見ごたえがある。

常山城近くのお勧めスポット 足の神様、与太郎神社

常山城の東、車で10分ほどのところに、足の神様としての多くの人に信仰されている「与太郎神社」がある。
ここは宇喜多家ゆかりの武将が祀られている。宇喜多直家の甥に当たる宇喜多基家(うきたもといえ)を祭神としているのじゃ。
直家が他界の後毛利氏が備前国に侵攻。宇喜多家は春家(一説には忠家)・基家親子を大将として派遣。宇喜多勢は八浜城に布陣し、東上して来る毛利軍と対峙したのじゃ。
そして、天正10年(1582)2月、両軍が激突。
合戦のさなか、足に傷を負った基家(与太郎)は難を逃れるため、竹藪のなかに身を潜めていたのじゃが、村人がその存在を毛利方に教えたため、あえなく討ち取られたといわれておるんじゃ。その後村人が供養のため与太郎塚を建立し、足腰の病気を治す神様として現在も多くの人々が訪れておる。
神社のすぐ隣にはお土産屋さんがあり、ここにしかないお土産や線香・蠟燭などのお参りグッズもある。
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