旧閑谷学校について
現存する世界最古の庶民のための公立学校で、武士も農民も学べる学校だったのです。
池田光政は、この学校の「永続」を願うほど、教育に思い入れがありました。
現在目にする閑谷学校の全容が整ったのは、創立から約30年後の1701年。300年の時を経てもなお、美しさ・堅牢さを保ち続けています。
まずは資料館へ
旧閑谷学校を大満喫するには、入場手続きを終えたあと、一番奥にある資料館に向かうのがおすすめです。
講堂を過ぎ、長い石塀沿いを歩くと洋館が現れます。
1905年(明治38年)、私立中学閑谷黌の本館として建設された建物で、現在は資料館として公開されています。
ちなみに江戸時代には、このあたりに生徒たちが生活する「学房」があったそうです。
ここで旧閑谷学校について予習してから各スポットを巡ると、建築に詳しくない人でも旧閑谷学校のすごさがより理解できるのでおすすめです。
建物の撮影はOKですが、資料の撮影はNGとなっています。
石塀
300年経っても、石の隙間はほとんどなく、雑草が生えないくらいきっちりと作られています。
中には割栗石という細かく砕いた石が入っており、入れる前にその石を洗うことで、種などが混ざってしまわないよう手間をかけているのだとか。
いかにして学校を「永続」させるか、工夫の表れなのです。
生徒たちは開放的な空間の中でびのびと学べるようになっているのです。
火除山(ひよけやま)
火除山というこんもりとした部分に注目です。名前の通り、学校を火災から防ぐための人工の山。
生徒たちが生活していた学房で実際に火災があった際、火除山のおかげで講堂までは被害が及ばなかったのだとか。
飲室門・公門・校門の違い
飲室門は、生徒たちが使っていた通用門。
両脇の花頭窓がある部分は部屋になっており、中国の建築様式を模しているそうです。
校門の先には、校内でもっとも重要な場所と考えられている聖廟(せいびょう)が見えます。
国宝・講堂
創建当時は「茅葺き」でしたが、その後改築され備前焼瓦に葺き替えられました。
一般的に瓦を固定するためには壁土が使われますが、この屋根には使われていません。
平瓦・丸い瓦・木材を組み合わせることで固定し、地震や雨風にも負けない堅牢な造りにしたのです。
丸太は中心がねじれやすいそうで、柱は太い丸太を4つに切って使うことで、ねじれやすい部分を避けているのだとか。
学校を「永続」させるために、さまざまな技巧が施されています。
拭き漆の床はピカピカ。300年前から生徒たちが磨き上げてきたことが伝わってきます。
生徒たちが学んでいる様子がよく見えそうな位置にあります。
習芸斎は教室として使われた場所です。
聖廟(せいびょう)と閑谷神社
奥の大成殿には孔子像が安置されているそう。今でも毎年10月には「釈菜(せきさい)」の儀式が行われています。
私が訪れたときはちょうど落葉の頃でしたが存在感がありました。
校内の敷地に神社を作ることで、簡単には学校をなくせないように工夫したといい伝えられています。
津田永忠宅跡と黄葉亭(こうようてい)
津田永忠宅跡には、今は建物はありません。ここで暮らしながら、永遠に残る学校を作るべく奮闘したのかと感慨深くなりました。
人生をかける大事業のうちのひとつだったことでしょう。
津田永忠は閑谷学校の建設のほかにも、後楽園の造営、百間川の開削や沖新田の開発などを手掛けた人です。
来客の接待や教員・生徒の憩いの茶室として建てられたそうです。
ちょうど紅葉がきれいでした。
池田光政の志と津田永忠の技
世の中をどう治めるか考え悩み、眠れない日が続くこともあったそうです。
そんなときに、儒学と出会い、心のよりどころとなりました。
以後、人の知恵や教育の力を信じ、人材を育てることで豊かな地を築こうと、教育に力を入れたのです。
そんな池田光政の志と、その思いをしっかりと建築として表現した津田永忠の技を目にすることができるのが、旧閑谷学校の見どころだと感じました。
ぜひ資料館からじっくりと見学してみてください。