以前は3階建てのビルの中に本堂があったのじゃが、建物が解体され、昨年新たに朱塗りの柱に白壁、重層の宝形造りの屋根を持つ本堂が平地に落成したばかりで、新本堂での2回目のバレンタインデーを迎える。今回は岡山戦国武将隊の宇喜多直家と宇喜多秀家親子、そして秀家の妻・豪姫と、宇喜多家家臣の戸川秀安が、生まれ変わった「光珍寺」を尋ねた様子をご紹介いたそう。
宇喜多家菩提寺・光珍寺の歴史
創建は奈良時代・天平勝宝元年(749)で、もともとは岡山寺と称し、東側に隣接する岡山寺と一体の寺であった。天正元年(1573)に宇喜多直家が父、興家(露月光珍居士)の位牌所としたことにより、光珍寺と名乗るようになった。江戸時代の慶安5年(1652)、藩主が池田家の時に岡山寺光珍寺と岡山寺観音坊に分かれた。その後徐々に本堂、客殿、愛染堂などの伽藍が整えられ、今日まで宇喜多家の菩提寺として続いてきておる。
※写真は戦災消失前の光珍寺(光珍寺ホームページより)
第二次世界大戦の岡山空襲により灰燼に帰す
今、再評価される宇喜多家
宇喜多家といえば、以前は暗殺、裏切りなど手段を選ばず下剋上を成し遂げた、日本三大梟雄と呼ばれた宇喜多直家と、そしてその息子である秀吉に若くして抜擢されて五大老にまで上り詰めたが、八丈島へ流配された関ヶ原の西軍の敗戦武将・宇喜多秀家が有名。親子ともに少し悪いイメージを一般的に持たれておった。
しかし、最近の研究や出版された書籍、小説やマンガなどによりこれらのイメージが変わってきている。ここ数年、宇喜多家の評価が今見直されてきておるんじゃ。領民や家臣のため、ましてや敵兵のために「一殺多生」という考えで手段を選ばず戦国の世を突っ走った直家。負けても流配先の八丈島で生き抜いた秀家。後世に子孫を残し、宇喜多家は語りつがれておる。明治になって許され、ご子孫の方々は本土に戻られた。このような宇喜多の生きざまに多くの歴史ファンが共感しておるんじゃな。
毎年2月11日に行われる宇喜多直家の法要
法要後に宇喜多家PR大使を務めるソプラノ歌手・雨谷麻世さんが奉納歌を披露する予定になっておる。
この法要には関係者以外にも広く一般の方も自由に参加することができるんじゃ。この機会にぜひ宇喜多家ゆかりの「光珍寺」に訪れてみられてはいかがじゃろうか。
お供え物は、もちろんチョコレートがよろしかろう。
【宇喜多直家公祥月命日法要】
誰でも参加可。参加費無料。
開催日:2024年2月11日(日・祝)
10:30~11:00(参列者によるバレンタインチョコレートのお供え)
11:00~11:15(宇喜多秀家卿PR大使でソプラノ歌手の雨谷麻世さんによる奉納歌)
会場:光珍寺(岡山県岡山市北区磨屋町6-28)
(公共交通機関)JR岡山駅から徒歩約15分
(車)山陽自動車道岡山ICから約20分
新しい本堂の中に入ってみた
この天井画は、前のビル内本堂にあったものを、そのまま移しているそうじゃ。その中には宇喜多の旗印である「児」の字が青白く浮かび上がっておった。正面には御本尊の阿弥陀如来像が祀られておる。
その近くには焼失した宇喜多直家の木像の写真が飾られておる。木像は焼失したが、写真が残っていたため直家の姿を垣間見ることができるんじゃ。実はこの写真を参考にして彩色された木像が復元されておるんじゃ。「光珍寺」から岡山市に寄贈されて、現在は岡山城天守内に展示されている。こちらも合わせてご覧になってくだされ。
2024年6月全ての工事が完了
境内はたくさんの木々が植えられ、緑多い新たな「光珍寺」として令和の時代に蘇るのじゃ。
さいごに
そして、岡山市は昨年「宇喜多家を大河ドラマに!」と名乗りを挙げた。今年から宇喜多家も益々注目され、研究も進んでいくことじゃろう。ぜひ、岡山の宇喜多関連スポットを訪れて、宇喜多家の生き様を感じてくだされ。我々岡山戦国武将隊も皆様のお越しをお待ちしており申す。
【光珍寺】
所在地:岡山県岡山市北区磨屋町6-28
TEL:086-222-2028