標高430mの臥牛山(がぎゅうざん)頂上付近に建つ天守は、国の重要文化財で、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。鎌倉時代、有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭重信が大松山に城を築いたのを起源とし、1683年(天和三年)に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になりました。
この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるため、戦国時代は激しい争奪戦が絶えず、目まぐるしく城主交代が繰り返されています。
登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえ、昔日のつわものたちが舌を巻いた「難攻不落の名城」の面影をうかがい知ることができます。白い漆喰塗りの壁と黒い腰板のコントラスト、空の青に映える美しい天守です。
雲海に浮かぶ備中松山城を望む展望台(雲海展望台)
「雲海展望台」に関する詳細は、下記のリンクからご覧ください。
①備中松山城 大手門跡
この岩盤の風景は、NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像で使われました。詳細は下記のリンクをご覧ください。
②備中松山城 土塀(三の平櫓東土塀)
③備中松山城 三の丸
「備中松山城のみどころ」を下記のリンクからご覧ください。
④備中松山城 厩曲輪(うまやくるわ)
映像「高梁市の文化財 備中松山城」(約7分)
⑤備中松山城 御膳棚(ごぜんだな)
⑥備中松山城 二の丸
⑦備中松山城 本丸からの天守
二層二階の典型的な山城ですが、三層見えるようにデザインされています。籠城戦(ろうじょうせん)を想定し囲炉裏(いろり)や装束の間(しょうぞくのま)が設けられており、二階には御社檀(神棚)があるのが特徴です。
⑧備中松山城 巨大な岩盤の上に立つ天守
なぜ、このように美しい天守などが残ったのでしょう?
慶応4年(1868年)、戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった山田方谷の努力で無血開城しました。明治6年(1873年)、廃城令が出された時に新政府によって商家に売却されました。
その後、荒廃しますが、昭和12年(1937年)「高梁保勝会」が結成されて、地元の高梁の方々の努力により、「昭和の大修理」が行われました。天守内の解説パネルには、小学校高学年生徒・中学校生徒・女学校生徒により、約2万枚の瓦が麓から山頂まで担ぎ上げている写真がありました。
⑨備中松山城 天守の二階風景
「発掘調査報告書」(PDF)を下記のリンクからご覧いただけます。
⑩備中松山城 天守の狭間(ざま)
⑪備中松山城 天守右側と二重櫓(にじゅうやぐら)
奥には二重櫓が見えており、右側の通路を行きますと二重櫓にたどり着きます。
⑫備中松山城 二重櫓(にじゅうやぐら)
二重櫓も国指定重要文化財です。
⑬備中松山城 本丸の城壁
この風景も、NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像で使われました。詳細は下記のリンクをご覧ください。